バックボーンが違えば同じツールを使っても導き出される正解は全く違う
昨今はスマホでピッピと大体のことはなんでも知れますよね。
昔は図書館とか専門書で必死に調べないとわからなかったことや、
実際に体験した人づての生の口コミでしか知る方法がなかったことも、
今はスマホでピッピと、誰もが同じ情報に簡単にアクセスできる時代。
なのに、そんな時代になればなるほど、
情報の取得が上手な人とそうでもない人、ってなっちゃいますよね。
上手or下手というより、正しい答えにたどり着けるかたどり着けないか、
それが自分にとって正しいかどうか判断できるかできないか、みたいな違い。
バックボーンが違えば同じツールを使っても導き出される正解は全く違う
同じツールで同じことを調べるにしても、得られる答えが違うってのは、
人それぞれバックボーンが違うので、
これだ!と最終的に導き出した答えも、そこにたどり着くまでの経緯も、
最終的に正解か不正解かすらも違ってくるわけですよね。
答えはどこかにあるはず、ということは知ってるけど、
それをどうやって探したらいいかを知らない、
またはそれが正解かどうかを判断する知識・経験値を持ってない、という問題。
受け取り方が違えば正解が不正解になるし、不正解も正解になるし。
見えてない世界の見え方が違う、というか。
見えてるところは必死に見れば(調べたり勉強すれば)みんな同じに見えるけど、
見えてないものを見るのはやり方も必要なことも人それぞれだし、
答えは一つじゃなくていくつもあるし、不確定要素が多いわけで。
インスタントに得たものはあんまり身にならない
昨今はスマホの使い勝手に合わせてなのか、
細かい部分が抜けちゃうというか、省かれちゃうというか、
楽に早く無難な答えにたどり着くように世の中が設計されてる気がするので
(自ら探さなくても勝手に情報がやってくる時代ですからねぇ)、
ますますバックボーンに大きく影響されるというか、
簡単に導き出せる答えって、案外いまいちなことも多いんじゃないかと。
すぐ正解に辿り着いた気になれるけど、ただ情報を知ったというだけで、
自分とのマッチング度合いが低すぎるというか、
身にならなくてあんまり意味がない、みたいな。
血となり肉となるの完全に真逆の世界。
なので正解にさっさとたどり着くことよりも、
無駄なこととか失敗することとか没頭することとか深掘りすることとか、
インスタントなこととは真逆のことに価値があるなー、
むしろ完全にそっちだなーと思うことが多々ある現代社会日本。
まとめ
つまり、自分なりのバックボーンを持つこと(経験する・体験する・思考する)が、
逆にスマホ時代以前よりも大事になってきてるなーっと。
それ次第で正解にも不正解にもなっちゃうから、
答えの導き方よりも、情報を判断する自分の中の基準の方が超重要だなっと。
で、その肝心のバックボーンを作る大元って、
結局のところ文化とか芸術とかカルチャーとか哲学とか思想とか、
イマドキで言えば不要不急で無駄なものとされがちなモノたちだけど、
そんなのこそやっぱり最重要だなーっと、改めて思いました。
っていう、どうでもいい話。
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